2004年3月2日BBL概要

戦後日本の生活改善運動と途上国の農村開発
−日本型貧困削減アプローチは可能か−

 

3月2日のDC開発フォーラムBBL「戦後日本の生活改善運動と途上国の農村開発−日本型貧困削減アプローチは可能か−」は、JETROアジア経済研究所の佐藤寛氏をキックオフ・スピーカーとしてお迎えして行われ、30名を超える参加者と活発な意見交換・質疑応答がなされました。キックオフおよび質疑応答の概要は以下の通りです。

【キックオフ】
1.はじめに
日本が経済大国になった理由として、一般に高度経済成長があったことを挙げるが、なぜそれが可能になったのか明らかにされていない。仮説として、日本の農村部における「生活改善」があり、それが高度経済成長の牽引になったことが挙げられる。「生活改善」とは貧困からの脱出プロセスであり、途上国の貧困開発に生かせるのではないか。

2.生活改善運動の歴史的背景
戦後、GHQは日本の再建の柱に「民主化」を据え、農村まで浸透させるための手段の一つとして「農業改良普及事業」(農林省と各都道府県が経費を折半する事業)を開始。農業改良助長法(1948年)を受けて、各県は農業改良普及所を設置し、「農業
改良普及員」(農業技術・生産指導、男性中心)と「生活改良普及員」(「生改さん」;農村生活の改善担当、全て女性)を配置。戦後の生活改善運動の中核が「生活改良普及員」であった。

3.生活改善運動の特徴
(1)「改善」の発想
(2)運動資金の創出
(3)グループ活動の推進
(4)海外からの援助の最大限の有効活用

4.生活改良普及員の役割
「考える農民を作る」という目標の下、
(1)ファシリテーター
農村女性に日常生活の問題点を気づかせ、問題として認識、改善を促す。
(2)仲介者
必要な知識・技術を他の行政機関から仕入れて紹介。他の集落で行われている生活改
善の試みの紹介。
(3)各農村の実状に合った形への「土着化」作業

5.生活改良普及員が献身的に働いた理由
(1)短期的な成果主義ではなく、appreciationがあった。
(2)農村社会での評価があった。
(3)ワーカー同士で認め合うことで、モラルと質を高める。

6.被援助国だった日本が言えること
(1)「外部者による目標設定」と「持ち込まれた制度」を、プロセスを経て「土着化」させていくことの重要性。
(2)援助の「お節介性」「欧米的価値基準の無意識な押しつけ」に対するセンシティビティ。
(3)非欧米・非キリスト教文化圏の立場からの援助理念・援助形態の提示。

【質疑応答】

1.(問)日本の場合、教育レベルが高かったので農村生活改善を行い易かったのではないか。
→(答)たしかに昭和20年代の女性の就学率は100%に近かったが、だからと言って情報の吸収が早かったとは言えない。生改さんの教育水準は現在の途上国のNGOワーカーより低い。文字を使った活動よりむしろ、絵を使い、自分たちの言葉でコミュニケーションを行っていた。

2.(問)第一次世界大戦前の日本の経済は相当レベルまで進んでいたので、第二次
世界大戦後は実は発展途上国ではなかったのではないか?
→(答)都市ではそうだったが、農村はそうではなく、貧困の悪循環であった。都市では技術、教育水準があったが、農村は取り残されていた。

3.(問)生改さんの役割以外に、農協など公共インフラとそのオペレーション、金融などの役割も大きかったのではないか。
→(答)生改さんの貢献が特に忘れられているので強調した。農業基本法(1961年)から政府による農業保護が始まった。そこへつなげるまでの働きに注目すべき。農協も同様の活動を行っていたが、モノを売ることとリンクし、必ずしも機能しなかった。「生活改善運動」の場合、さまざまなアクターが生活改善という言葉に収斂していった、行政の縦割りはあったが、末端の保健婦と生改、農家同士が協力し合っていたことが大きい。

4.(問)欧米のアイディアがどのように導入され、関わっていたのか。
→(答)生活改善やコミュニティ開発はアメリカの開拓時代のものが導入されたが、アメリカの思想と日本の現実の間で米国留学帰りの日本人が咀嚼し直して普及。咀嚼
プロセスは日本人だけが行い、その際、現地の状況が最優先された。

5.(問)こうした研究を今後の援助アプローチにどう応用できるか?
→(答)モデルとしてフィリピンに導入したがうまくいかなかった。既存の資源を使って少しずつ改善するといった積み重ねの中で良くなるのではないか。例えば、JOCV村落開発普及員がいるが、彼らの活動に、生活改善のスピリットが使えるのではないか。また、バングラデシュ、インドネシアの南スラベシで行うJICAプロジェクトでは、末端行政とコミュニティの間でシナジー関係を作ることを目的とした複層型アプローチがあるが、これも本研究の応用とも言える。

6.(問)政府への反対勢力が開発の阻害要因になることがあったのではないか。
→(答)日本の場合、敗戦したことで、幸か不幸か外部者のGHQが農地解放、農地
改革を行い、疎外要因を除去してくれた。その背後で生活改良普及員がグルーピング
アプローチを採用し、芽のあるところ、既存の機能しているグループを抽出して活動を行った。これでは最貧困層は救えないが、彼らを「福祉」に回すことで対応した。

7.(問)他国ではアメリカの行った戦略はどうだったのか。
→(答)フィリピンや中南米等にも、アメリカは同様の「生活改善」アプローチを実施したが、成功したと言えるのは日本だけ。他のセクターとの協調、住民レベルで公務員を尊重する一方、厳しく監視していたからではないか。

8.(問)米国は「民主化」を言い続けながら失敗し続けている。反面、日本のようにこんなに成功した国もない。それが輸出可能なのか。他方、フィリピンはなぜ失敗したのか。そこから学べることは何か。
→(答)純粋な民主化を追求するなら、日本の民主化は邪道でまだ実現されていない
と捉えられる。問題なのは、当時のGHQが日本型民主化を認めたことを、現在のアメ
リカは理解していないことである。日本は、アメリカが打ち出した「民主化」を土着化したことを強調すべきではないか。その土着化させたプロセスを提示すれば他国にも応用できると考える。

9.(問)アフリカなど途上国を見ると援助慣れし、自ら開発を進めるインセンティブが働かないように思うが、インセンティブ作りをどのように行うべきか。
→(答)放置したら誰かがやると思っているのが現在の途上国。日本は誰もやってくれなかった。援助にスポイルされることがなかった。ゆえに、ここから日本のレッスンは得られないのではないか。

以上の諸点をはじめ、日本として取り組むべき課題や、議論を聞いての感想など、短いものでも結構ですのでinfo@developmentforum.orgまでご意見をいただければ幸いです。

(DC開発フォーラム幹事 杉原ひろみ)

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