ワシントンDC・ODA改革ランチ

「CDF・PRSPを超えて−開発戦略における日本の付加価値−」

 

 2002年2月11日、米国ワシントンDCにて、官・学・民・国際機関の経済協力実務家を中心とした有志約20名が、昨今世銀を中心に推進されているCDF・PRSPに対して日本としてどのような付加価値を提示していくべきかについて、昼食を交え意見交換を行ったところ、概要は次の通りです。

【ポイント】

 

  • CDF・PRSPのような枠組みを提示しても、ケース・スタディーを具体的に行わないと、途上国での適切な政策提案に結びつかない。日本は、5−6か国の事例を徹底的に研究して理論化し、世銀に提示し主張していけば、CDF・PRSPを発展・深化させていく上で大きな貢献となり、また日本の存在感を示すことができる。
  • 世銀には、組織設計の失敗、資本市場の有効性に対する過信、法律面における配慮の不足等の問題が存在している。これに対しては、ことさら日本・アジアモデルの優越性を主張するよりも、「政策の順序」、「開発に対する段階的アプローチ」等、世銀側の既存の理論の実効性を高めるための修正として提示する方が発信力が高まる
  • 基本姿勢として、CDF・PRSPの重要な問題点を明確に指摘しつつ、その改善策を幾つか示唆するという、全面賛成でも全面反対でも黙認でもない「半身の姿勢」が適当。その上で、上記のケース・スタディ等により、あるべき政策の中身、類型、ツール等につき実務的観点から様々な貢献を提示し、CDF・PRSPの枠組みでも主張することが有効。
  • 具体的には、途上国にスキーム選択の機会を与えることによるオーナーシップの尊重とキャパシティ・ビルディングの実現、インフラ等投資環境整備による成長の実現、産業政策や政府の能力強化の重要性等につき、日本の幅広い経験を生かして豊富な例示とともに示せば説得力を持つ。
  • NGOのCDF・PRSPプロセスへの参画については、当面は政府とNGOの事前協議を通じたインプット、中長期的にはNGOの人材育成・交流・キャリアパス整備が課題。

  【本文】

  1. 経済政策優先順位論

      (GDN(グローバル開発ネットワーク)シニアエコノミスト・朽木昭文氏)

    (1)はじめに

     世界銀行は、ウォルフェンソン総裁のもとCDF(包括的開発フレームワーク)による援助を提唱している。宗教から文化まで含む包括的な政策を実施し、そのフレームワークを基に特定の政策に焦点を当てることを提唱する。しかし、解決すべき問題だけが拡がり、焦点をどのように当てたら良いのかという議論がこれまで欠けていた。経済のグローバル化が進行する中で、民間部門の経済のウェイトが高まり、公共部門のウェイトは相対的に同じか、小さくなった。各国の政府が政策を実施する上では、政策に優先順位を付け、それによって限られた国家予算の配分にウェイトをつける必要が大きくなった。この点につき具体的に検討を深めていくことが不可欠であり、日本として大いに貢献できると考える。

    (2)経済政策の優先順位

     経済政策の実施には、優先順位をつけることが必要である。第一に「社会的生存水準の達成(食料・教育・保健)」、第二に「安定化政策」、第三に「ハードとソフト(制度)のインフラの整備」、第四に「経済自由化(貿易・投資・金融)」、第五に「成長戦略」、第六に「所得格差の是正」である。これを、特定の目標を達成したら次の段階に移行するというフローチャートの形にして考えている。例えば、識字率が50%に至る前は基礎教育重視、それを達成した後にヘクタール当たり穀物収穫量が100kgに至る前は農業生産重視、それを達成した後にインフレ率が30%以下となり対外経常収支が対GDP比マイナス8%まで改善する前はマクロ経済経済安定化重視、といった具合である。

     当然ながら、各国の経済・文化という個別の事情により対応が異なることにも留意すべきである。社会的生存水準達成を例に取れば、ラオスでは焼畑農業の改革から始める必要がある。モロッコでは子供の水汲み仕事の問題があり、いくら学校の校舎を建設し教員を育成しても、これを解決しない限り子供が学校に参加できない。パキスタンは女性教師の不足がネックになっている。日本において、このようなケース・スタディーをアジア諸国の経験を対象に行った上で、CDFの枠組みに載せて議論を展開すれば極めて有意義である。

    (3)成長戦略の重要性

     途上国においては、まずは農業の生産性の向上が課題となる。ラオス、ベトナム、カンボジアでは食料生産不足が補助金拡大等の財政悪化に繋がり、マクロ経済の安定の達成が困難となった。やはり、農業は国の基礎である。次に、マクロ経済の安定が課題となる。この手当てをしなければ、病気の人を全速力で走らせてダウンさせてしまうようなものである。経済成長を一定程度に抑制して、徐々に進めていく必要がある。その上で、制度改革や自由化が必要となってくるが、この点は世銀・IMFが昨今主張している通りである。

     しかし、この段階に至った国について特に強調したいのは、成長戦略の重要性である。経済学における成長理論は、貯蓄率の向上が経済成長の向上につながるというものであるが、どのように貯蓄率を向上させるのか、そして具体的にどのような制度を構築し、誰が中心に進めるのかが問題である。コロンビア大学のスティグリッツ教授も、政策の決定と経済主体の行動をどのように結びつければ経済成長につながるかを検討する必要があり、これをしないと実際の成長につながらないと述べている。昨今の世銀の議論ではこの点が欠けている。そして、ある程度の成長を達成したところで、初めて所得格差解消のための貧困削減が大きな課題となってくる。(自分の作成したフローチャートでも、ジニ係数が50%以下に下がっているかという判断基準を一番最後に置いている。)

    (4)アジアの産業政策

     成長戦略において一番重要な経済主体は、アジアの経験をベースにして考えれば、国内民間部門である。1980年代以降のアジアの成長を説明するのは海外直接投資(FDI)、特に、天然資源をベースとしたものが牽引役となった。例えば、マレーシアでは石油、パーム油、ココアといったものが1980年代前半に重要産業となった。また、中小企業、更に国営・国有企業が問題となる。中国やベトナムなどでは、国営企業をどう改革するかがボトルネックになっている。また、自分としては観光産業も大きな潜在性があると思っている。このように、個別の経済主体についてどのような戦略をとるかという議論を詰めていかないと、実際の成長にはつながらない。これは、計量分析のみのアプローチを批判し、またそれを補完するものとも言えよう。計量分析と個別戦略の双方がなければ成長が達成できない

     アジアで実際にどのような産業政策がとられてきたかを分析すると、1950年代から2000年に至るまで、国と時代により違いが見られる。具体的には日本、韓国、中国は大企業中心の産業政策をとった。日本では、傾斜生産方式をはじめとして、60年代まで産業政策が採られ、その後はOECD、IMFに加盟して自由化が進められた。

     日本、韓国、中国相互でもかなり違いがある。技術導入・移転について、日本は自前で行った。韓国は技術面から徐々に取り入れる形をとっており、例えば自動車産業は部品を日本からの輸入に依存した期間が長引いたため、それによる貿易収支の悪化が後に韓国の経済成長のボトルネックになった。他方、中国は外国企業を利用している。例えば自動車産業は国内に8大会社を指定して、1つの会社に2つの外資を割り当てて、10−15年後に中国の会社にするというのが中国の自動車産業政策である。そして、これが割に成功している。他方、中国では政府内の部局と中央地方政府の争いがあることから、自動車産業以外の産業政策はうまくいっていないと理解している。

     なお、中国では、1977年の改革開放の後、計画経済がかなり推進されたが、1984年に「台湾の鷹」の輸出加工区をモデルとして「経済特区」が導入された。それから1992年まで中国経済の変化を支えたのは、いわゆる郷人企業(village and town industry)である。1992年以降は、外資が支える形で経済ブームが起こり、1994年には自動車産業政策をはじめとする一連の産業政策が発表された。これを実行しようと思ったところでアジア危機が発生し、中国の経済政策の方向を変えさせることになった。これに対し、1985年のプラザ合意以降の台湾や東南アジア諸国の成長は「台湾の鷹」をモデルとした「輸出加工区」に支えられたものであり、マレーシアやタイもこれを変形した政策の導入が成長のバネになった。そこにアジアの成長パターンが収束してアジア危機が起こったという構図がある。

 以上を踏まえれば、産業政策は外資を如何に上手に活用するかという問題に収斂する。アジアで活用された「輸出加工区」は、数十年前に搾取のモデルとして批判されたが、現在の途上国も、外資を上手に活用する以外の方法で成長を達成するのは難しいのではないか。特に、1980年以降、グローバル企業がバリュー・チェーン・マネージメントを導入し、世界規模での企業再編が進行している。そして、この流れは21世紀も続く。成長戦略にせよ、ODAの活用にせよ、このような流れを踏まえて初めて効果が期待できる。例えば、部品産業もグローバル市場の中で考える必要があり、アフリカのインフォーマル・セクターの中小企業育成をやみくもに進めても頭打ちになる。グローバル企業との連関の中で価値を提供する会社が生き残る。

 現在、世界で産業政策と呼べるものをとっているのは、ブラジル、中国、インド位である。他の国は産業政策をとろうとすると、世銀・IMFの圧力で政策変更を求められる。マレーシアは、世銀、IMFからも融資を受けずに独自の政策を進めているが、経済が比較的うまくいっているため、現時点では特段の産業政策がとられていない。ヴェトナムも政府が保護する産業政策は良くないということで国際競争重視という方向に随分シフトした。

(5)おわりに

 以上は自分が行ったケース・スタディのポイントを簡潔に述べたものであるが、要は、CDFのような枠組みを打ち上げても、このようなケース・スタディを具体的に行っていかないと、途上国での実際の政策提案に結びついていかないということである。日本は、5−6か国の事例を徹底的に研究して理論化し、世銀に提示し主張していけば、CDFを発展・深化させていく上で大きな貢献となり、また日本の存在感を示すことができよう。

  (世界銀行アフリカ局・豊島俊弘氏)

  1. はじめに

     自分は日本政策投資銀行からの出向で世銀に来ている。世銀にはアカデミックなレベルでポテンシャルの高い人がひしめいていることは良くわかったが、他方で驚いたのは、率直に言えば、実務経験がない人たちが、非現実的な改革処方箋を金太郎飴のように各国に押し付けている姿であった。特に、人員合理化圧力の中、アウトプットの量に対する要求が厳しく、セクター担当者は少なくとも5プロジェクト程度は同時に走らせなければならない。従って、各国経済に大いなる影響を与える割には、粗い分析と手続きでプログラムを進めているという感がある。やはり、国のフレームワークに影響を与えるような仕事であれば、「ナイストライ」では済まされない部分があるので、失敗の場合も受入国の納得を得られるような手続きと準備をするのが本来の姿である。やや細かくなるところもあるが、どういった所に疑問を感じているのかを以下説明したい。

  2. 世銀の組織設計の失敗

     まず、世銀では折角の人材の宝庫を生かすような内部管理が出来ていないことを指摘したい。2−3年前に導入されたと聞いているが、世銀内部で人員合理化を促進するために導入された予算管理システムは、利益概念のはっきりした職場において業務パフォーマンスに給与や経費を連動させるのには適しているが、利益概念の希薄な業務に適用された結果、自らの給料のためにプロジェクトをつくる結果となっている。貸し出し額のセクター毎の大きさは、本当のニーズアセスメントよりはカントリーチームの中の根回しにより決定され、プロジェクトのオーナーシップは受入国にあるとタテマエでは述べつつも、微細にその内容に関与しつつ、貸し付け決定まで自ら行ってしまうので、「利益相反行為」により組織が動いているようである。PRSP等の指標の選び方も恣意的な面があり、また成果測定も自ら行っているため、世銀内部評価で「SATISFACTORY」という事例がどんなに増えても、途上国における改善が目に見えてこないのも当然の結果と思う。外部にガバナンスの指導をする割には、自分の組織のガバナンスが無いという印象である。

     金融のトレーニングを受けたことのある人であれば、「金を貸す」ということの意味をもっと真剣に考える筈である。本来、金は借りる人がその必要性と返済能力を説明し、そのフィージビリティを貸す側が検討して融資するものである。世銀の仕事を民間に例えると、メインバンクがつぶれそうな会社に対して人員合理化と新規投資を同時に薦めているようなもので、人員合理化は金融規律によって説明できるが、新規投資はメインバンクが決して薦めるべきものでは無い訳である。なぜなら、ビジネスの世界は厳しく、銀行員が思いつきで投資を薦めても、それほど成功しないからである。日本の銀行には、人まで送り込んだ上でこのような投資を行ってしまった例もあったが、そのような銀行については貸し手責任(Lenders Liability)が問われていることはご存知の通りである。

     世銀の職員はプロジェクトで何を見ているのかと言えば、かなりの時間を調達管理に割いている。言い換えれば、○×株式会社に貸す銀行が、その建設の請負先選定と工場の設計を監督しているようなものである。そして、肩越しに入札をチェックするのは「不正防止」という名目であるが、何か違和感はないだろうか。第一に、そこまで、相手を信じられないのであれば、普通は貸さない。しかし、本質は、貸したお金が誰のビジネスになるのかというところに最大の関心があるからであろう。ここに、タイド・アンタイドの議論とのオーバーラップが出てくる。書生っぽい意見かもしれないが、結局は発注利権・世銀内部の官僚利権により、経済的に目指しているマクロ便益の達成が阻害されている訳で、この点は、日本・アジアを持ち出すまでもなく、世銀の内部努力によって改革を目指すべき問題点だと言えよう。

 「東アジアの奇跡」のレビューがニューエコノミー論者の最も勢いのある時期に行われたがために、産業政策全般が否定され、世銀内で日本人が発言しても、「あなたたちの経験は無関係(irrelevant)である」と決め付けられるようなこともしばしばである。「産業政策=Rent Seeking=悪」という連鎖を断ち切ることが出来ない。

 しかしながら、一昨年来のドット・コム・バブルの崩壊やアルゼンチン問題等により、強気一辺倒であったマクロエコノミストたちの自信もぐらつきはじめているように見える。自分は比較的長い間、資本市場に近いところで仕事をしていたので思うのだが、問題は、世銀・IMFの中の多くの人々が、マクロ的な便益とビジネスの利益が単純一致すると置き換えて思考停止していることにある。その背後には、「極めて効率的で資本市場主導の透明な経済フレームワークを短期間の改革で作り出せる」ということが無意識に前提とされている。そして、世銀という組織の中で資本市場整備をアドバイスすることを仕事とする人が現れると、国の発展段階や証券取引制度が未整備なままでも、お構いなしに資本市場創設を提言してしまう。すなわち、人が仕事を作ってしまうのである。

 ある世銀機関の人は、アフリカのある国に資本市場を作る知的支援を、IMFや米国財務省と調整しつつ行っている。彼は、過去に証券会社で仕事をしてきているので、現実レベルとのギャップをわかっているが、それを言えば世銀機関という組織の仕事がなくなり、そうすれば皆リストラ圧力の下にくるので、文句も言っていられないようである。

 たとえば、私はそのような仕事をしている人たちに対して、以下のような質問をすることにしている。途上国の企業のバランスシートはどうやって信じられるのか?公認会計士は何に基づいて仕事をしているのか(日本では、公認会計士法、商法と証券取引法に基づく監査義務があるから仕事があるけれども、途上国では証券取引法はなく、商法的に考えて大会社となるものも限られており、また第三者監査の義務は規定されているのか)。日本では税理士が財務諸表作成を手伝うことが多いが、これは徴税の面であり、エンロンのような利益過大計上を株主のために戒めることはないが、これに類する制度はあるのか。帳簿が信用できない会社を上場して不特定多数に売買させるまでに必要なステップを現実的に考えているのか。これらの問題に対して、きちんとした説明が得られたことはない。市場を作れば、市場の要請によって透明になるという、卵が鶏を生むという回答が殆どである。

 しかし、目端が利いて逃げ足の早い国際金融資本は、それほど辛抱強くマーケットを育ててくれるのであろうか。これはあり得ない。エマージング・マーケット向けのプライベート・エクイティーがいつも狙っているのは、「魅力的に聞こえる素材」である。この点、NASDAQのネット企業と同じである。日本のマザーズ上場企業や米国のNASDAQ上場企業の中の多数がここ2年の間に暴落をしようが、それは、巨大な資本市場のある国の中の一部であるから許容されるが、途上国全体にこのようなリスクを負わせるべきではない。IMFの近時の調査では、エマージング・マーケット・ファンドが通貨危機の直前に大量の資金引き上げを行ったことが確認されている(ロシア、チェコ、ブラジル、アジア、但し、タイは必ずしもそうではなかった)。もちろん、IMFの文書なので、海外からの投資資金が逃げることが観察されたとしても、それを犯人視できないというような分析になっているが…

 我々が今後考えなければならないのは、外国からの投資といった場合に、「金融投資」と「事業投資」を明確に分離して考えることである。そして、事業投資がある国の経済危機の場合には、経済リンケージがあるため、為替切り下げ等によってそれなりに回復手段があるとしても、アルゼンチンのように、国営企業の民営化によってドル資金を呼び込んで通貨価値を維持していたような場合には、ストック投資だけでフローの裏付けがないので、資金引き上げが経済全体を麻痺させてしまうという問題がある。何故引き上げられるのかは、それが事業投資ではなく、コミットのない金融投資だからである。エンロンの場合は、売り逃げた役員の所得は米国内に残って消費に回るが、外国投資の場合は、引き上げられてしまえばそうはいかない。通貨危機の傷跡を癒すための増税が付加価値税等で逆累進的になるのがメキシコ等の経験である。

(4)3つのセクターの調整速度の差が金融裁定の源泉

 くどいようだが、昨今の金融商品開発に関わっていると、その目的は経済における調整サイクルの遅さであるとか、情報の非対称性からいかに裁定利益を引き出すかということに常に重点がある。国のマクロ的構造調整の成功は、「金融」「ビジネス」「労働市場・制度」の改革がシンクロして初めて可能になるが、問題は、金融セクターのみが突出して巨額かつ速すぎることであり、かかる資本移動の速さが経済の不安定化をもたらしていることを真剣に受け止めた上で、マクロ理論を否定するのではなく、(イ)透明で厚みのある資本市場の構築と、(ロ)市場が幼稚な間の市場への資金流出入が国の経済全体に与える影響を遮断するステップを考えるべきある。中国のように、内外を分けるのも一つの知恵であるし、マレーシアのように、短期資金移動をコントロールするのも良い試みだと思う。その他の構造的歪みがあるからといって、すべてを否定する必要はないと思う。

 適切ではない喩えかもしれないが、自分は、ビジネスの利益というものは、例えばタイタニック号が沈んでいくのを見た時に、それに乗り付けて金持ちの金品を奪ってしまうということをも正当化できると説明している。営利機会があり混乱に乗ずることが出来れば、全体の経済が上昇しようが下降しようが、金融的には利鞘を確保することは可能である。儲けた人は、高いリターンは高いリスクに対する当然の報償であると胸を張ることだと思う。そういった「欲望」が営利活動のエネルギーとなるので、これを否定する必要はない。権力に近いところから財閥が生まれるといったことについても、「多少は目をつぶる」余裕も必要である(この社会的寛容性を「タメのあるなし」と呼んでいる)。しかし、道義的な問題やコストの外部化が余りにも大きい場合や、外部流出が予想される場合には、制度的な縛りが必要であろう。

 また、世銀ではビジネスが無限に早くなるという「幻想」を未だに引きずっている。極端な一部情報産業を別にすれば、物理的な商品を扱う以上、ビジネスのサイクルはどうしても5−10年は必要である。この金融市場が途上国には全くなく、日本では長期信用銀行のような形で補ってきたところである。競争概念を強調しすぎる余り、「早いことは良いことだ」ということに何の疑問も差し挟まなくなっていることは要注意である。一番遅いところにあわせると同時に、そのボトルネックをどうスピードアップするのかということが求められる技術である。

 では、そのボトルネックは何なのか、これは、労働市場の流動性だと考える。人間の生活パターンは簡単には変えられない。労働市場の不完全性が常に失業を生み出している。日本の家族的会社は問題があるとは思うが、各国の政府は歴史的には、社会コストを企業活動に内部化させることによって、経済活動の成果を社会的安定に結びつけようとしてきたのではないだろうか。しかし、今、途上国で言われているのは、外国の優良資本が必要な時間、必要なだけ臨時従業員を雇い、固定費的な負担は国が行うというようなケースばかりである。これでは、キャパシティも生まれず、使い捨てである。外国企業優遇政策に過ぎないが、それでも投資を受ける国は受けない国よりは幸せだという程度のことである。東西冷戦構造の間は、社会主義に対抗する上で、労働者の福利の向上を示すことが、資本主義経済に求められていたと思う。しかし、東側の崩壊によって、ここにおいて守らなければならない一線が崩れたのではないか、というのが私の疑問である。マルクス経済学のような労働搾取の問題まで飛躍しないうちに、修正が必要になってくる分野だと思う。

(5)法律面からのアプローチの不足

 途上国といえども法治国家であり、何事をするにも「法律」は必要である。しかし、世銀において法律に対する認識が非常に弱いことは一つの問題である。これはエコノミスト全般に言えることで、日本でも、改革が実行段階で時間がかかるのは、法律の壁があることが一つの要因となっている。以下にいくつかの例をあげたい。

  1. インフラ整備への民間参画

     現在、インフラ整備への民間参画(Private Participation in Infrastructure)について、必要な法的枠組みを検討しようという試みを手伝っている。きっかけは、以前に私が世銀の共催するフォーラムで、民間企業のインフラ事業参画にあたっての法整備について話したことである。自分は、コモンローの国とシビルローの国の法概念の違いについて問題を提起した。すなわち、契約書から発想するコモンローの国では、契約を締結する権能のある人がコンセッションを与えれば、それで民間に対する権限委譲ができるが、大陸法の国では、憲法を頂点に公法体系(省庁設置法、行政法、財政法、自治法、道路法などのインフラ法)と私法体系(民法、商法、等)が明確に区分されていて、公益に関わる分野における私益の行使が大幅に制約されていること(公物に対する担保権設定、料金認可等)であった。そして、法律に違反する契約は無効になるので、法律上の手当てを無視して進めた場合には、結局は契約上の取り決めが最後は守られないという結果が出てくる。

     これは全てカントリーリスクとも言えず、投資する側が国内法を良く勉強していない、民間参画の枠組みを作るときにきちんとした法律手当てがないといったことが原因である。例えば、世銀の民間インフラに関するアドバイスを見ると、全ての文書に「透明性」とか「効果的規制枠組み」とかいった言葉が出てくるが、それを具体的に担保する仕組みは何かと聞いたとき、それは、結局は法律やガイドラインになる。しかし、その具体的な内容を十分に答えられる人は少ないと思う。例えば、日本でPFI法を作った時には、民活法の不透明さの反省から、客観評価と結果の公表を法律で義務付け、法律に位置付けられた民間委員会(首相の諮問機関)が客観評価の方法や公表の仕方についてガイドラインを公表した。また、既存の公物管理法との関係について、個別法の改正ではなく特別法を用意し、その特別法にある手続きを踏めば、個別法と別に民間参画ができる、インフラ横断的な整合的なフレームワークを提示した点に特長がある。法律の条文に何を書くのか、どういうガイドラインをつくるのか、透明性やアカウンタビリティ、紛争解決の時の公益・私益のバランスをどうするのかを、法律の条文イメージで出すことが出来て初めて本当の知的支援ができるのだと思う。

     世界各国のインフラ法に関する蓄積が世銀にあるのかというと、体系だったものはない。皆、世銀は世界各国の民間参画を指導しているので、事例の宝庫だと言われるし、イメージバンクといったドキュメントの宝庫を調べれば法律フレームワークの論文がいくらでもあると言われるので、リサーチアシスタントを使って文献調査をし、内容をチェックしたところ、個別法に踏み込んだ研究は今のところ一つもでてきていない。セントラル・ユニットに聞きに言って、あなたたちが、例えば透明性が重要だといった時、それを実現する方策として何か具体的なものはあるかと迫ったが、それは個々のタスクチームリーダーが考えることだ、ということで体系的な法律文書の蓄積はなかった。世銀内部にあると聞いた旨を言うと、「誰がそんなことを言ったのか」と逆に聞かれる結果であった。個別の担当者に行くと、確かに、法律が断片的に収集されているが、それはコンサルタントの報告に添付されているようなもので、細かく目を通しているとは思えない。

 先日、ある国のPRSPの話をカントリーチームでしたときに、誰かから、中央政府、地方政府、自治体の行政責任の規定はどうなっているのかという質問が出た。皆、「貧困削減」という崇高な使命を語るのは良いが、住民レベルになる程、行政サービスの執行責任は自治体になっていき、国との対話で超えられない問題が出てくるのだと思う。米国のように、州が国で連邦に権限を委譲しているのか、日本のように、国と地方自治の独立を並立させつつ、国がコントロールするのか、それとも、国が地方に執行を委譲するのか、こういったことを規定するのが法律なので、そこを明確に見て、さらに、法人格とレベルの異なる政府間の資金のやり取りを本当にモニタリングできるのかという議論になったるはずであるが、その点につき誰も考えておらず、結論がないということが分かって愕然とした。全地方政府と対話することなど出来ないので、窓口は国に絞ろうということは全員一致している。しかも、地方分権を推進することは主要アジェンダの中に入っている。それなのに、NGOとの対話は一方で強化するのであり、気持ちは分かるが世銀の中の理屈も混乱している。

(ハ)金融全般

 資本市場育成については先に述べた通りである。企業会計規則の話、監査の話、証券取引関連法制、監督機関(金融庁の設置法等)、銀行法、証券法、金融サービスに関する個別法、出資法等のすべてが揃った上で初めて金融市場が成り立つ。もちろん、裁判制度と判例の積み重ねも重要であろう。また、金融関連以外でも、担保法、所有権等の物権・債権の規定などなど、資本市場に関係なく、相対取引でクリアされていない問題が山のようにあると思う。マイクロファイナンスについても、何でも良いはずはなく、インフォーマルな闇金融との違いは何なのか突き詰めて考えないと、フォーマルな金融の成長もなくなってしまう。

 以上述べたように、法律に関する蓄積がまだ体系化されておらず、関心も低いのは意外だが、いくつかの分野に特化した各国の法律ライブラリーを日本に作るだけでも、わが国の知的支援の具体性は飛躍的に高まるのではないかと思う

(6)マクロ調整に伴う歪みを押さえる知恵としての日本・アジアの工夫

 日本・アジアモデルが優れているなどと言っても、外部からの受けは良くない。それよりは、アジアが他の途上国との比較で相対的に発展したのは、その政策に「合理性」があったからであるということだと思う。これは、結果があるのだから安心して主張できる。その中身は何かというと、時間軸の中で、調整にズレが生じるところを補う政策を取ってきたということである。

 例えば、戦後の自動車産業で言うと、国内で競争力のある産業をつくれるはずであり、それに相応しい労働力・技術力などの要素資源が潜在的にあるけれども、輸入品のみに依存すると、その能力を発現させられないので、「幼稚産業」である間は一定の保護下に置く、といった政策である。国内に潜在要素があるので、一定の保護があれば、政府が考える以上に民間が参入して競い合うことになる。そうすると、市場開放圧力が当然来るので、開放されても渡り合えるように準備しようということで、集約化も含めて更なるキャパシティ・アップが図られる。逆に国内ですら競争が起きない、内外価格差が一向に縮まらない場合は、仮説が間違っていたので、どこで撤退するのかを明確にしておく必要があろう。このような考え方が合理的だと思う。

 従って、日本国内で伸びた産業は、国内同士でも競争が働いたということで、ある程度育成期間を置くことに合理性があると思われる。一方、国内の競争を制限した産業は、最終的には国際競争力もつかず、対外開放も遅れる。これらの産業は結局大きな問題を抱えることになる可能性が高いのは我々が実感している通りである。従って、レント・シーキング的な措置には必ずサンセットが必要であるということについて、日本は素晴らしい反面教師としての素材も提供することが出来ると思う。幼稚産業育成期間をどこで卒業させるのかを明確にすれば、それなりに面白いと思う。また、石炭のように、国内におけるショックを緩和するために、時間をかけて安楽死させるケースもあると思う。日本は少し時間がかかりすぎたが、最終的に撤退シナリオの一部であることが明確であれば、これも説明可能だと思う。日本でこのようなビジョンを織り込んだ政策を取ることができたのは、政策のオーナーシップが国にあったからだと思うし、これは正にPRSPのポイントとも一致する。

 「金融」「ビジネス」「労働市場・制度」の改革をシンクロさせることについては既に述べた通りである。

(7)おわりに

 このように考えると、政策の順序(policy sequence)であるとか、開発に対する段階的アプローチといったものについて、無理にアジア的で異質なものとして対決するよりも、既存の理屈の実効性を高めるための修正として提示することが我々の発信力を高める鍵になるような気がする。私のいる世銀アフリカ局の民間セクター部では、エントリー・ポイントと称して、特定の産業とそれにつながるサプライ・チェーンをたどって、波及のある成長分野を育てようとしている。これ自体はあまり違和感がないが、具体的な手法になった時に、したたかな民間ビジネスマンが途上国に投資するときには単純にカモられてしまうのかなと思ったりする。

 いずれにせよ、世銀の内部でこれらの問題を率直にぶつけているうちに、世銀アフリカ局のタスクチームリーダークラスの職員を20人くらいまとめてアジアにつれて行って、もう一度アジアの様々な開発モデルを勉強してみようかということになった。これは、世銀の中では稀なケースで、彼らの考え方に欠けている視点、特に、実際的な視点を出来るだけ頭に入りやすい形で提示できないだろうかと考えている。また、来年10月に予定されているTICAD3に向けて、アジア諸国の経験につき各々の国の視点から分析した資料のデータベースのようなものを作れないか考えている。日本を際立たせるのではなく、アジアの国にいろいろなものを言ってもらうことが一番ではないかと考えている。

 今回の世銀職員研修では、日本以外ではシンガポール・マレーシア・ベトナムを検討中だが、日本でのテーマは以下を考えている。これは、PRSPプロセスで日本が付加価値で提示するためのアイディアにもなると思う。

(イ)

.戦後日本の開発政策の変遷

 国内におけるキャパシティ・ビルディングの過程で、過去にレント・シーキング的な段階があったこと、最終的な経済形態は民間市場経済であっても、実績のない民間企業が新分野・投資に踏み出しやすくするためのインフラ(制度含む)を政府が提供することによって、民間でコントロール不能なリスクを吸収する仕組みがある程度機能したこと。また、各分野内の競争は結局政府指導よりも民間同士の競争が機能したことなどを伝えられればと思う。できれば、アジア各国の貿易・投資制限や「国民車」構想が、様々なゆがみを生みつつも、普遍的に製造業におけるキャパシティーの獲得に貢献したことなどにも触れられれば良いのではないかと思う。

(ロ)アジア諸国と日本の間の経済的リンケージ(貿易・投資、相互依存関係の進展)

 特に、ヨーロッパとアフリカ、北米と南米の関係と比較して、アジアの南北関係(今やもっと対等だが)は何が違うのかを際立たせることが重要だと思う。

(ハ)一国二制度:中国の実験を理解する

 今回の目的地には中国が入っていないが、中国の経済開放のこれまでの流れについて理解させたい。ポイントはプラグマティズムであり、既存権力との短期的な対立を避けながら段階を踏んで市場化を進めていることである。その裏に様々な非経済的な制約がありつつも、様々な制度破壊とは別な移行政策としての考え方として捉えられないかどうかということである。一方で、本当のキャパシティーが中国内で育っているのか、などについて議論したいと思う。

(ニ)政策金融の役割について(インフラ金融と中小企業金融について)

 先にも述べたが、20−40年の投資回収期間を必要とするインフラに対して純粋民間金融は極めて困難である。特に途上国において、国内市場は皆無である。民間投資と理解されている事例も、きちんと見れば、外貨建て借り入れで、主要リスクをすべて政府が取る形になっていて、且つ、為替下落時には、国内利用者に為替リスクの転嫁が出来ず、政治問題化する歴史を繰り返している。また、中小企業金融については、証券取引法による情報開示のない世界ですから、正しい融資のマーケット金利というものは机上の空論である。米国でも、欧州でも、アジアでも、中小企業金融は何らかの基準の下で政府の支援を受けている。世銀内部ではこれを全面的に否定しているが、過去の大プロジェクトに対する国家融資の議論とごちゃ混ぜになっている。一方、グラミン銀行のようなマイクロファイナンスを振興しようとしているが、特殊な例外を除いて、インフォーマルセクターのファイナンスでフォーマルな市場経済が育成されることは困難と思われる。

  1. 質疑応答

(1)CDF・PRSPに対する基本姿勢について

(2)産業政策について

(3)為替政策について

(4)NGOとの関係について

(1)政府・NGO共同の開発援助人材育成

 日本政府のCDF・PRSPへの貢献が議論されるとき、CDF・PRSPを理解し積極的に国際舞台で発言できる人材、とくに政府援助機関における人材の育成というようなことはよく言われるが、そうした人材育成の対象の中にNGOセクターにおける人材も一緒に含めて考えていく必要があるのではないだろうか。開発援助の人材育成を考えるとき、公務員とNGO職員といった旧来の二分化を取り払らい、「開発援助のプロフェッショナル人口全体の増加」といったような目標に目を向ける必要があるのではないか。

(2)政府によるNGO職員の中・長期国内・海外研修の支援

 NGOの政策協議・提唱キャパシティーを上げるためには、政府援助機関が毎年、職員を国内外の研修、特に大学院レベルに派遣しているように、NGO職員にもそういった高度な学習訓練の機会が与えられる必要があると思う。

(3)政府援助機関からNGOへの出向勤務

 日本の援助機関の政策立案に携わる部署から職員をNGOに1−2年程度を目安とし出向させる制度を実施することで、NGO組織における開発政策の理解を深める。

(4)NGOから政府援助機関・国際援助機関への出向勤務

 NGOセクターの政策協議・提唱能力の育成を目指すにあたり、NGO職員を国内外の援助機関の政策立案に関わる部署へ1−2年程度出向させる制度を実施する。

(5)NGOでの政府援助機関・国際援助機関OB・OGの採用

 国内外の援助機関で活躍された後に退職された人材をNGOセクターで再雇用することで、そうした人材の政策経験・知識といったものが直接NGOに伝えられることができる。

(6)政府援助機関とNGOの信頼醸成の促進

 両者の信頼関係なくして政策レベルでの協調・連携を語ることはできないのではないか。特に、「NGOが政府の政策に批判的であってもよし」とするカルチャーを育てていく必要があるような気がする。また、この点で、政策レベルの協調自体とプロジェクトレベルの資金援助を切り離して考えることが重要となるだろう。すなわち、「政府に批判的なNGOには資金援助しない」といったような風潮をなくさなければならないということである。この点では、先頃のNGOのアフガン復興会議への参加をめぐるような騒動は今後なくしていかなければならないと思う。

(5)その他

(以上)